剣豪  荒木又右衛門


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

山門前には荒木又右衛門の墓所所在の案内の碑が建っています。

 

 

 

   山門を入るとすぐ左側に荒木又右衛門の墓所があります。

 

   山門入り右側には遺品館があり、荒木又右衛門が使用していた刀や鎖帷子など、また江戸時代から現代に至るまでに、荒木又右衛門を取り扱った娯楽(錦絵、浄瑠璃、講談本、小説、マンガ、スゴロク等)の資料を全国各地から集め展示しております。昭和58年にオープンし、観光シーズンには関西、中国地方から絶え間なく団体客が押し寄せ、一時は年間3万人を超える大勢の観光客が訪れました。今では世情がかわり伊賀越え仇討ちを知る人が少なくなりましたが、遠くは関東、九州から立ち寄られる方もあり、ここ鳥取の地にこんな名所があったのだと驚いて帰られる方もおられます。

 

 

 

   記念館内部

 

左の写真は荒木家子孫へと伝わった又右衛門の遺品コーナー。左から又右衛門が着用していた御守り、鎖帷子(くさりかたびら) 、決闘で使用した2本の刀、仇討ちの概要が記された仇討ち始末などが展示されております。

 

   荒木又右衛門は三重県伊賀市荒木の出身で、姓は荒木ではなく、本名は服部丑之助といいました。荒木村から一山越えた所に服部半蔵一門の集落があり、荒木もその系統に属します。しかし大柄な体格であった為に、忍者の道を諦め剣術士官を志したとされています。

  父や伯父の元生家を離れ小姓を務めていたが、青年期に親元を離れ1人故郷へ帰ってきます。その後10年ほどの間の記録がなく突如大和郡山藩の剣術師範役に抜擢され、250石を与えられています。この空白期間に剣術の腕前を上げ、土地名である荒木を名乗ったのではないかと思われます。

  荒木は岡山藩の家臣・渡辺家の娘・みねと結婚し娘も授かり、大和郡山(奈良県北部)で円満な生活をしていましたが、岡山城下で起こった殺傷事件に巻き込まれる事になります。義兄弟である渡辺数馬(みねの弟)から仇討ちの助太刀を依頼された荒木。当初は断り続けていましたが、藩より上意討ちのお達しを受け遂に荒木も承諾。荒木一行は1年半の放浪の旅の末、仇討ちを成し遂げます。