玄忠寺とは


  玄忠寺は、鳥取市街地に位置する浄土宗の寺院であります。

  

  永正5(1508)年に、鳥取城下、湯所町高浜地(現在の鳥取北中学校付近)に草庵を築いたのではないかと伝えられています。その後城郭整備により矢野地(材木町)へ、さらに城郭整備により中の島(現在の玄好町公園)へと移転しました。玄好町という町名は玄忠寺の寺号がもとになっています(『因幡誌』)。またこの頃に浄土宗寺院としての体裁が整ってきたものと考えられます。

 

  中の島当時の玄忠寺は、旧袋川(鳥取藩の輸送拠点)と薬研堀との合流地点付近に位置しており、門前町は玄忠寺横町と呼ばれており(『鳥府志』)、また周囲は池に囲まれ風光明媚な寺であったとされます。玄忠寺が日本三大仇討ちで有名な荒木又右衛門の菩提寺となったのは、この頃になります。

 

  その後万治3(1660)年の火災により、現在地(新品治町)へと移転し、又右衛門の墓は鳥取藩の手により運び移されたとされています。

 

  玄忠寺境内には、荒木の遺品を展示する荒木又右衛門記念館、庫裡には羅漢を描いた襖絵、四季折々美しい景色が望める庭園などがあり、鳥取市の観光コースの一つとなっています。

 

寺名の由来


      玄忠寺は現在地(新品治町)に移ってから3度火災に遭っています。最近では1800年に全焼した(『鳥府志』)為、これ以前の過去帳や寺の資料が焼失し、寺名の由来も定かではありません。

 

  江戸時代初期の上記古地図には、「源忠寺」という名で記されています。あくまで想像のもとですが、玄忠寺を創建した僧侶の戒名・深心大忠大和尚の「忠」の字、また浄土宗開祖法然上人の僧名・源空の「源」の字を用いたのではないかと思われます。

 

  その後「源」の字は、現在の「玄」の字へと改字されました。法然上人が念仏の教えを広めるもととなった、善導大師という僧侶が中国の「玄中寺」で修行をされておられました。玄中寺は中国山西省の奥深い山の中にあり、多くの中国浄土教僧侶の修行道場として知られており、その寺名にあやかって、「玄」の字に改めたのかもしれません。

 

玄忠寺住職


  

 写真は玄忠寺第29世となる瑞譽博道住職。平成28年5月29日に晋山式を営み正式に住職に就任しました。

 

  500年の歴史ある玄忠寺住職の中でも、第7世住職である休波上人は、東京・祐天寺の開創・祐天上人の伯父にあたり、祐天上人を出家へと導いたことで知られております。祐天上人と玄忠寺の由縁については祐天上人のページに記載。